
江戸時代の花や植物は、庶民の息吹と固く結ばれていましたが明治時代になると文明開化の波に押されて、我が国の植物相も大きく変わっていきました。それは、いわば明治時代の渡来した多くの外来植物によるものといえましょう。ところが、それらの多くはどんなに手術を弄しようとも、流花になり難く、ここに華道人の苦悩があったことは想像に難くありません。
未生流笹岡の初代、笹岡竹甫も、そうした時代の華道人の一人でした。
未生流の高弟であった竹甫は、この外来植物をいけばなに導入すべく試行錯誤の末、明治末期漸く、四季の風景の縮尺ともいえる挿花「投入(なげいれ)」「盛花(もりばな)」を編み出すに至り、1919年「未生流投入盛花家元」を創流しました。これが今日の「未生流笹岡」の歴史のはじまりでもあります。竹甫の作風は自然の出生を重んじ、写実性に富んだ一種独特の風格がありました。また竹甫は生花(せいか)の名手でもあり、40分間に36瓶の葉蘭(はらん)をいける早業を持つなど、稀にみる天才として今も人々の語り草になっています。

現家元、笹岡勲甫は、1925年京都に生まれ、伝統の技を受け継ぐべく、先代竹甫より教えを受け、1966年二代家元を継承。勲甫の編み出した流花かきつばたの技は「かきつばたの笹岡」として全国にその名を馳せています。
また勲甫はいけばなを正しく伝えるためには理論的研究も必要であるとして『挿花百練』(未生流の始祖未生斎一甫の口述書、1816年)をひもとき、そのなかに脈々として流れる古代中国の陰陽思想に触れ、いけばなから日常生活にまで及ぶその心を広く伝えたいと日夜研鑽を重ねています。現在、未生斎一甫の花伝書『挿花百練』を伝えているのは当流のみです。