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いけばなの歴史

自然に対する畏敬の念

古来、私たちの生活は「自然」と密接な関わりを持っていました。天候は作物の出来を大きく左右しますし、天災は恐ろしいものです。しかし、秋になると私たちに豊かな実りを与えてくれます。そんな自然に対する畏敬の念が、日本文化の根底にあります。日本人は、人間と自然は対立するものではなく、人間も自然の一部であると捉えています。

1.神の依代

日本人は、あらゆる自然に神が宿ると考えました。大きな山、森、岩といった自然の造形物は、神霊の宿る依代(よりしろ)とされ、崇拝の対象となります。我々の祖先は、家の中に神を招き入れたいと考え、依代を家に持ち帰ろうとしました。山や森は大きすぎて到底運べないので、そこに生えている常緑で樹齢の長い常磐木(ときわぎ)を持ち帰ることにします。杉や檜、榊のように、落葉せず、一年中青々とした葉をつける常緑樹が、依代として相応しいと考えられたのです。常磐木の中でも、特に長寿でかつ大きく成長する松が喜ばれました。こうして持ち帰った松を、家の玄関に飾ったのが門松で、床の間に飾ったのがいけばなのルーツだと考えられます。

2.仏前の供花

八百万の神とともに暮らしてきたわが国に、六世紀の半ば、異国の神がやってきます。仏教の伝来です。当初は、国家鎮護のための宗教として受け入れられ、同時に建築や土木といった技術も日本に伝わりました。漫画の原型とされる高山寺の「鳥獣人物戯画」には、蛙の本尊に向かって、猿の和尚が法要を務めているユーモラスな姿が描かれています。平安時代末期の供花の様子を知る貴重な史料で、本尊の前にテーブル状の卓(しょく)が置かれ、卓上の花瓶には蓮の花が入っています。こうした仏前の供花(きょうか、くげ)も、いけばなのルーツの一つです。

3.鑑賞の花

自然の花を観賞する「花見」は日本人に欠かせないものです。庶民の文化としての花見が盛んになったのは江戸時代と言われていますが、すでに平安時代には天皇が梅や桜を楽しむ宴を催し、花を題材とした歌が数多く詠まれています。『枕草紙』には縁側の手すりの前に大きな青い瓶を置いて、風情のある枝をたくさん挿したという記述が見られ、この頃には器に花を挿すという習慣があったことがうかがえます。

                                                 

4.寄合の花

現在、日本文化と呼ばれているものの多くは、室町時代に生まれています。室町時代は、金閣・銀閣や龍安寺石庭、世阿弥の能や雪舟の水墨画に代表されるように、多様な芸術が花開いた時代です。当時の日本には、平安時代の天皇や江戸時代の将軍のような、絶対的な中央権力が存在しませんでした。公家、武士、寺社がそれぞれに力を持っていたため、争いを避けるための外交が不可欠でした。客を迎えて連歌会などの寄合をする場を会所(かいしょ)と呼びます。人と人とが交わる場所には文化が生まれますから、この会所が、現在まで続く多くの日本文化の成立に大きな役割を果たすことになりました。会所で花や茶、香や歌で遊んだのが、現在の華道、茶道、香道、歌道のはじまりです。

                        

5.同朋衆の活躍

 室町時代後半になると、将軍家の周辺で芸能や雑役に従事する同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる人々が現れます。彼らは阿弥号を持つ僧体で、会所の座敷飾りを担当するインテリアデザイナーでした。能阿弥と孫の相阿弥が残したとされる『君台観左右帳記』は、この座敷飾りの教科書です。唐絵や唐物、つまり宋・元から輸入された絵画や工芸品の飾り方が記されているのですが、その飾り方は花瓶・香炉・燭台の三点セット「三具足(みつぐそく)」が基本でした。『仙伝抄』、『池坊専応口伝』、『賢殊花伝抄』など、最初期の花の理論書が成立し、相伝されるようになるのもこの頃。左右非対称の構成や真行草の理論など、現代にも通じる美の基本理論が説かれました。花の構成論が確立し、いけばなはようやく黎明期を迎えます。