花瓶に花をさすという行為は、古く平安時代から行われていたと書物に記されていますが、当時は厳密な型はありませんでした。室町時代には、同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる僧侶たちが、書院造りの座敷飾りの花として「たて花」を生み出します。これは、中心に心(しん)と呼ばれる枝を直立させ、その下に枝を沿える様式です。
当時の花伝書には「右長左短」と書かれています。一方(心)を長く、もう一方(添え枝)を短く、アシンメトリー(左右非対称)に花をいけなさいという考え方で、現在の「盛花(もりばな)」のデザインに踏襲されています。
花矩(はながね)と呼ばれる花の型が定まってきたのは江戸時代前期。独立して鑑賞される「立花(りっか)」と呼ばれる形式が成立します。真(しん)と呼ばれる枝を中心に立て、その前後左右に数種類の役枝(やくえだ)を配置する豪華な様式です。当時のいけばなは、公家や僧侶といった特権階級のためのものでした。
この装飾的ないけばなに対するアンチテーゼとして、「生花(せいか)」が生まれてきます。1種類の花のみを使用し、3つの枝で小宇宙を表現するというシンプルな考え方は、庶民にも分かりやすく、いけばなが広く一般大衆に受け入れられるようになります。
※現在、未生流笹岡で「たて花」「立花」をいけることはありません。これらの型をふまえて、江戸時代に「生花」が誕生します。
生花
江戸時代後期(1800年頃)、未生流の始祖である、未生斎一甫が庶民のためのいけばなとして「生花(せいか)」を考案します。
生花は、3本の枝で小宇宙を表現します。中心に伸び上がる最も長い枝を「体(たい)」、向かって左側に伸びた次に長い枝を「用(よう)」、向かって右側に伸びた最も短い枝を「留(とめ)」と呼びます。それぞれが「天(太陽)」「人(人間)」「地(地球)」を象徴しています。
また、生花は、花の全体が三角形におさまります。体の枝先と、用の枝先、足下の3点を結ぶと、直角二等辺三角形になります(用の枝先が直角の頂点です)。
投入・盛花
明治・大正期(1900年頃)、バラやユリなどの西洋の植物が日本に渡来します。これらは、曲線を用いた生花の様式にはおさまりにくいものでした。そこで、未生流笹岡の流祖、笹岡竹甫は、大小二つの三角形を組み合わせた新しいいけばなを考案します。これにより、真っ直ぐな洋花をいけばなに用いることが可能となり、当時の若い世代の関心を引きます。
瓶や壷など背の高い花器にいけるものを「投入(なげいれ)」、水盤など背の低い花器にいけるものを「盛花(もりばな)」と呼びます。「体」と呼ばれる大きな三角形は太陽を、「用」と呼ばれる小さな三角形は地球にいる我々人間を象徴しています。そこで、体は太陽に伸び上がっていくように大きく、用は地面に這うようにと変化をつけていけあげます。
色彩花
戦後(20世紀半ば)、未生流笹岡の二代家元桃流斎勲甫は、当時日本に輸入された西洋の抽象画のデザイン手法を用いて、新しいいけばな「色彩花(しきさいか)」を考案します。法隆寺の伽藍配置に象徴されるように、日本人は左右に変化をつけたデザインを得意としてきました。西洋のデザインの基本は完全な左右対称形(シンメトリー)ですが、そこに左右の変化を加えます。左右の枝の長さや本数、角度を変えるなどして変化をつけた左右対称形(変形シンメトリー)にいけあげるのです。
また、異なった花材で、アクセントをつけるとより効果的。この色彩花は、自由度が高いため、いける人の個性がより反映されます。このようにいけばなは時代の要請に合わせて変遷を遂げています。常に新しいものを取り入れているからこそ、長い間続いてきたのですね。